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官軍塚沖に眠る米国蒸気外輪船「ハーマン号」
官軍塚沖に眠る米国蒸気外輪船「ハーマン号」
黒船ハーマン号は、ペリー提督のサスケハナ号に迫る大きさで、当時最大級の船舶です。
通常は帆走しますが外輪により無風でも航行出来ました。
性能諸元
全長・・・71m
全幅・・・12m
深さ・・・9.6m
大きさ・・・1,734余総トン
動力・・・蒸気ボイラー1,100馬力
構造・・・木造蒸気外輪船(3本マスト、三層甲板)
建造・・・1847年(ニューヨーク)
沈没・・・1869年(千葉県勝浦市)
キュステとの大きさ比較
ハーマン号事件を記録した絵巻物
平成22年に熊本藩士の子孫宅で発見された絵巻物は、6枚の絵と添書から構成され全幅6メートル。
深夜の座礁から翌朝の救出まで詳細に描写されています。
左図は座礁直後の様子。甲板で慌てる人々や信号弾の打ち上げが描かれています。
※ 写真 熊本県 里 美裕子氏提供
ハーマン号事件概略
戊辰の役で旧幕府軍の榎本武揚は函館五稜郭で官軍に抵抗し、維新政府から鎮圧を命ぜられた津軽藩は容易に平定できませんでした。このため津軽藩主の実兄が熊本藩主であった縁故を頼り援軍を要請。
明治2年2月13日(旧歴1月2日)熊本藩は米国汽船ハーマン号を雇って隊長、寺尾九郎右衛門以下350人が米国船員80名とともに品川を出発しました。
しかし深夜、川津沖の岩礁地で漁師が「関東の鬼ヶ島」と呼ぶ難所で大暴風雨に遭い座礁沈没。川津の住民は救助活動にあたりましたが230人あまりの犠牲者を出してしまいました。
この遭難者を埋葬、供養し明治11年に「華立巌(はなたていわ)碑」として慰霊碑が建立されたのが現在の官軍塚です。以降、約150年にわたり地元川津区では犠牲者の慰霊を続けています。
その後、明治25年5月に熊本県出身で当時の千葉県知事であった藤島正健らの尽力により地元川津地区にある津慶(しんけい)寺に熊本藩兵瘞骸碑が建立されました。
その傍らには、後に海中より引揚げられたハーマン号の揚錨機と思われる機械部品が設置されています。
明治40年代に外構等を再整備された官軍塚は管理人も定められ明治維新の史跡として維持されていきます。
太平洋戦争の際には国産初のレーダー基地として敷地が海軍に接収され近隣に一時移転を余儀なくされましたが、終戦後に現在地に再度移設された後、県の指定史跡となり現在の公園として整備されました。
ハーマン号が破壊される場面
川津区による毎年のお盆の供養
津慶寺に残る揚錨機・石碑
官軍塚の変遷
- 明治2年2月
華立(はなたて)墓地(現在の官軍塚公園駐車場付近)に犠牲者170名埋葬 - 明治11年5月1日
藤田九萬撰文による「華立巌(はなたていわ)碑」建つ - 明治42年4月8日
殉難者40年祭を開催するとともに、墓地周辺の石垣等を再整備する。
- 昭和3年頃
「華立巌(はなたていわ)碑」の様子
- 昭和13年頃
「華立巌(はなたていわ)碑」の様子
- 昭和16年
海軍の国産実用第一号レーダー官舎建設のため、慰霊碑を矢の浦付近に移転。
※ 写真 東京都 伊藤良昌氏提供
- 昭和22年
終戦により海軍が造成した高台のレーダー台座上に移転
- 昭和34・5年
県知事に請願、区民も協力して整備することとなる。 - 昭和38年5月4日
千葉県指定文化財(史跡)に指定される。
展望台や駐車場を備えた公園として整備が進められる。
- 昭和44年2月8日
熊本県知事、千葉県知事、細川家関係者等を迎え、官軍殉難者100年祭を開催する。
- 平成3・4年頃
日本水中考古学調査会の井上たかひこ氏の調査により長らく不明であった「ハーマン号」の船名が明らかになる。
- 平成10~13年
日本水中考古学調査会による水中調査の結果、沈没位置が特定され、船体材の一部や食器類等の生活用品が引き上げられる。
※ 市役所で展示
- 平成22年
熊本藩士の子孫、里美裕子氏宅から事件を記録した全幅6mの絵巻物が発見される。
- 平成23年9月
地元有志により、「ハーマン号を世に出す会」を結成。
広報活動のさらなる推進や、ハーマン号沈没日に合わせた慰霊祭の開催を決定。
- 平成24年2月13日
第1回ハーマン号慰霊祭を開催。
以降、毎年2月13日に慰霊祭を米国大使館や遺族関係者も参列する形で開催している。